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心を込めずに言葉を探すより、言葉を探さずに祈りに心を込める方がよい。ガンジー

春秋(日経新聞)

11 3月

<東日本大震災>春秋 2014/3/11付

春秋 2014/3/11付

人間はおそらく2つの時間の中で生きている。どんどん流れて先へ先へと進む「時」。株式市場では100万分の1秒の単位で、何兆円ものカネが利益を競い合う。遅れれば負けのゲームである。秒針に背中を押されて、人は僅かな変化にも新しい価値を探そうとする。

▼古い一枚の写真のように、止まった「時」の価値もある。「記憶」と言い換えてもよいかもしれない。何年たっても変わらない。忘れられない。忘れてはいけない。2011年3月11日の14時46分が、その時だった。あれから3年が流れた。復興で生まれ変わった景色もある。傷ついたまま変わらない心の中の情景もある。

▼「時よ止まれ、おまえは美しい」。文豪ゲーテの戯曲「ファウスト」で、理想国家の建設を夢見る老学者が思わず口にする言葉である。3.11の惨事が起きる瞬間。その直前までの美しい姿のまま、被災地の時が止まっていれば、と夢想することもある。それでも再建に心血を注ぐ人間の知恵と努力は、間違いなく美しい。

▼早く過去と決別し、未来に進みたいという声がある。記憶の風化を恐れる声もある。そのどちらも大切にしたい。心配は要らないのかもしれない。2つの「時」の価値を行き来しながら生きる能力を、たぶん私たち人間はみな備えている。ゲーテはこうも語っている。「毎日を生きよ、あなたの人生が始まった時のように」

10 3月

<春秋>1945年3月10日

春秋 2014/3/10付

「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9日、場所は東京・下町の国民学校。現在の小学校にあたる。卒業生66人を引率、疎開先の宮城県から帰京し、親に引き渡した時の言葉だ。

▼これから空襲がひどくなり、首都がその標的になると予想していた。せっかく疎開している子を戻すのには反対だった。しかし、やむをえずの帰京。国のやり方への反感を公の場で示したのは、当時としてはぎりぎりの発言かもしれない。「くれぐれも空襲から身を守ってあげて下さい」。校長先生は親たちに念を押した。

▼生徒の1人である東川豊子さんのこうした回想を、早乙女勝元著「東京が燃えた日」が紹介している。両親との再会、慣れた町、集団生活からの解放に皆、はしゃいだ。その日の深夜に爆撃機が来襲。子を守ろうとせぬ親などいなかったはずだが、それでも66人の生徒のうち13人が命を失う。東川さんも父と弟を亡くした。

▼この夜の死者は10万人以上。想定外の数字ではなかった。河出書房新社「図説東京大空襲」によれば、東京の防衛に責任を持つ陸軍中将が空襲の前年にこんな論文を発表している。東京の爆撃で約10万人が死ぬ。しかし東京の人口は700万人。「十万人死んだところで東京は潰(つぶ)れない」。命を見る目の軽さに改めて驚く。

春秋 2014/3/3付

第2次大戦も末期、一般人を巻き込んだ空襲が本格的に始まったのは、終戦の年の3月だった。10日に東京、数日後に名古屋や大阪と、軍事施設だけでなく普通の街が火に包まれていく。ある程度予想されたにもかかわらず、農村や郊外へと避難した住民は少なかった。

▼最近出版された「検証防空法」という本で、理由の一端を知った。消火活動に従事させるため避難を事実上禁止し、違反すれば懲役か罰金を科していたのだ。法律にこうした決まりが盛り込まれたのは東京大空襲の4年前。真珠湾攻撃と同じ年だ。「爆弾にあたって死傷する者は極めて少ない」といった手引書も出ていた。

▼同書によれば、戦意喪失を避ける目的も大きかった。空襲を受け郊外に逃げたら、食料配給を止めると言われて街に戻り、次の空襲で家族を失う。そんな体験をした人もいた。NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」にも、「焼夷(しょうい)弾が落ちたら、消火しようとせず逃げろ」と指導した市役所職員が逮捕される場面があった。

▼東京大空襲などがあった3月には長らく、多くの人々が戦争の悲惨さを語り継いできた。3年前からは、震災とその犠牲者に思いをはせる季節にもなった。終戦から70年近くがたち、直接の体験者が減っていく。しかし何が起こり、それがなぜ起きたのかを調べ、伝えていく大切さはいまも変わらない。震災も同様だろう。

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春秋 2014/3/2

きょうは残留孤児の日だという。太平洋戦争の末期、中国から日本へ引き揚げる途中で親と離ればなれになり、現地に取り残された日本人孤児47人が1981年のこの日、肉親捜しのために初めて祖国を訪れた。訪日調査はこの後も毎年続き、そのたびに話題を呼んだ。

▼当時の取材メモを読み返すと、今でも胸が熱くなる。親戚に一番いい服を借りてきたと、上下の大きさが違う背広を着込んだ男性。思い出の品の、黄ばんだ家族写真を握りしめていた。再会がかなう日の目印に、母親が別れ際に泣きながら噛みちぎった耳の傷痕を、恥ずかしそうに、うれしそうに見せてくれた女性もいた。

▼新たに残留孤児と判明する人は減り、昨年は1人もいなかった。永住帰国した孤児は政府やボランティアの支援を受けて暮らしているが、言葉の壁、生活習慣の違いから日本になじめない人は多い。損害賠償を求める集団訴訟も起きた。「祖国に帰って本当に良かったのか」。そんな思いがよぎることも少なくないという。

▼訪日調査の会場となっていたのは、東京・代々木の青少年総合センターだった。64年に開かれた東京五輪の際、選手村だった施設である。そして2度目の東京五輪がめぐってこようとしているいま、「おもてなし」の言葉を耳にするたびにこう思う。私たちは母国での暮らしを夢見た同胞に、温かく接してきただろうかと。



4 3月

<春秋>1853年クリミア戦争

春秋 2014/3/4付
「いやでござんすペリー来航」。黒船4隻を率いてペリー提督が浦賀沖にやってきた1853年を、こんな語呂合わせで覚えた人も多いだろう。同じ年でも世界史になると「いや誤算だったクリミア戦争」。ロシアは英仏などを敵に回し、南下政策に失敗したのである。

▼時代を動かす大きな出来事が、2つの地域で同時進行していたわけだ。欧州列強はクリミアにかかりっきりだったから日本開国で米国の一番乗りを許し、ロシアのプチャーチンは長崎に来航しながら戦争勃発でいったん引き揚げた。ロシア船での密航を企てた吉田松陰はあてが外れ、翌年、黒船に乗ろうとして獄に落ちる。

▼こうして眺めれば、19世紀の昔でさえ日本にも何かと影響を及ぼした黒海沿岸の戦乱だ。地球がうんと狭くなった現代では、かの地の事態は日本の外交にも経済にもすぐさま影を落とそう。ウクライナの新政権に対抗し、またぞろ武力を背景に虎の子のクリミア半島掌握をねらうロシアの動きに世界の緊張が高まっている。

▼権益を確保するためならひどい横車を押してはばからぬこの大国に、ここは日本も米欧と結束してしっかり圧力をかけねばなるまい。わが方は北方領土問題を抱えていて……とたじろいでいたらかえって足元を見られるだけだ。「いや誤算だったクリミア介入」。こう嘆かせるために、国際社会はどんな手を打てるだろう。


◆ナポレオン戦争(1803-1815)ナポレオン(Napoleon Bonaparte、1769-1821)(即位:1805)

◆クリミア戦争(1853~1856)(Crimean War)
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/ship/gv-sCrimn.htm
ナポレオン戦争が終わるとヨーロッパには、しばしの平和が訪れていましたが、
欧州東方のオスマン(Ottoman Empire:1299-1923)・トルコが弱体化してくると欧州列強はその領土を狙って動き出しました。
そうして起こったのがクリミア戦争という大戦争でした。

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戦場:クリミア半島、バルカン半島、黒海、バルト海、カムチャッカなど
期間:1853/10月(1854/3/28:英仏の宣戦布告日)~1856/3/30
対戦国:ロシア帝国 vs 同盟国連合軍
戦力:700,000人以上 vs 960,000人以上
  ▽ロシア帝国700,000人・ブルガリア義勇兵4,000人
  ▽イギリス250,000人・フランス400,000人・オスマン帝国300,000人・サルデーニャ王国18,000人
損害:ロシア死傷者 522,000人 vs 同盟国連合軍死傷者:374,600人
  ▽イギリス21,097人 フランス100,000人 オスマン帝国200,000人 サルデーニャ王国2,050人
結果:ロシアの敗戦 vs 英仏土連合国の勝利

◆パリ講和条約(終戦)
1856/3/30にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとで、パリ条約(Treaty of Paris 1856)が成立しました。
この戦争で、産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシアの、国力の差が歴然と証明されることになりました。
建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていました。
ロシアでは大量生産が未だしで、大砲や小銃の種類が多くて共通する弾丸が少なく、兵站補給面での立ち遅れもあったといわれています。

◆第一次世界大戦(1914-1918)

26 2月

春秋 2014/2/23付 Where Have All The Flowers Gone?

娘が花を摘んで若者にささげる。若者は兵士になり、やがて墓に帰ってくる。墓にはまた花が咲き、花を娘が摘む……。ベトナム戦争のころ、どこでも歌われたフォークソング「花はどこへ行った」は、ぐるぐる回るばかりの世界を描いた反戦歌の名作として知られる。

▼曲をつくった米国のピート・シーガーが1月末、94歳で死んだ。訃報に、メロディーや歌詞がふと口の端にのぼった人もいるだろう。はやりの言葉を使えば、シーガーは米フォーク界の「レジェンド(伝説)」だった。彼は、ショーロホフの小説「静かなるドン」のなかに引用されたウクライナ民謡に曲の想を得たという。

▼ウクライナはいま、混乱のなかにある。欧州連合(EU)よりロシアとの関係を重んじるヤヌコビッチ大統領の側と、これに反発する勢力との武力衝突は、一時は内戦と見まがうほどにも激しさを増した。1991年に旧ソ連から独立して20年あまり、国の針路は親欧米と親ロシアの間をぐるぐる回るばかりで定まらない。

▼それぞれの後ろ盾だったEUや米国、ロシアも、これまでけん制しあうだけだった。「花は娘が刈る/娘は嫁に行く/男は戦へ行く」。シーガーは民謡の3行に誘われ、肉付けしていったという。つくった曲では「いつになったら人は学ぶのか」という詞を呪文のごとく繰り返した。まるで今を見透かしていたかのように。


Where Have All The Flowers Gone?
花はどこへ行った?
Pete Seeger (R.I.P.)
http://protestsongs.michikusa.jp/flowers_gone.html

1955年に、当時赤狩り旋風により活動停止を余儀なくされたPete Seegerが失意の中で作った歌。
ミハイル・ショーロホフの小説「静かなるドン」にでてくるウクライナ民謡の歌詞を元にして作った反戦歌。

1964年にキングストン・トリオ/the Kingston Trioによってヒットし、その翌年にはPeter Paul & Mary/ピーター・ポール&マリーによって世界的にヒット。この後、ベトナム戦争を背景とした反戦歌として多くのフォーク歌手によって世界中で歌われ広まった。ジョーン・バエズ/Joan Baezも英語やドイツ語で歌ってきた。ドイツ語バージョンはナチスから逃れドイツからアメリカに亡命した歌手、マレーネ・ディートリッヒ/Marlene Dietrichが歌った歌詞を元にしていると思われる。下の動画では英語版が聞ける。他にもとてもドラマチックなコーラスワークが特徴的なブラザーズ・フォーthe Brothers Fourのバージョンも特に日本で人気が高かった。日本人歌手の中でも1966年にザ・リガニーズがおおたたかしの訳詞にで、キングストン・トリオ/the Kingston Trioに似たアレンジで歌った。2002年に再結成されたフォーク・クルセダーズもアルバム「戦争と平和」で英語のままで発表。

花→少女→青年→兵隊→墓地→花 というように花で始まり一回りして花にたどり着いて終わる歌詞構成。花が少女に摘まれ、少女は青年のもとへ嫁ぎ、軍に動員された青年は戦場で死んで墓地に埋められ、その墓地に花が咲くという内容の反戦メッセージが込められている。シンプルなメロディと歌詞構成が力強い。

2000年ごろにNHKテレビで特集番組が組まれた。この歌の全てが分かるので、ぜひご覧いただきたい。

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Where have all the flowers gone?
 Long time passing
 Where have all the flowers gone?
 Long time ago
 Where have all the flowers gone
 Young girls have picked them every one
 When will they ever learn,
 When will they ever learn?

Where have all the young girls gone?
 Long time passing
 Where have all the young girls gone?
 Long time ago
 Where have all the young girls gone?
 Gone to young men every one.
 When will they ever learn,
 When will they ever learn?

Where have all the young men gone?
 Long time passing
 Where have all the young men gone?
 Long time ago
 Where have all the young men gone?
 Gone for soldiers every one.
 When will they ever learn,
 When will they ever learn?

Where have all the soldiers gone?
 Long time passing
 Where have all the sodiers gone?
 Long time ago
 Where have all the soldiers gone?
 Gone for graveyards every one.
 When will they ever learn,
 When will they ever learn? 

Where have all the graveyards gone?
 Long time passing
 Where have all the graveyards gone?
 Long time ago
 Where have all the graveyards gone?
 Gone to flowers every one.
 When will they ever learn,
 When will they ever learn?

15 1月

<東京都知事選挙>理性に服従しなければ、ばかである

「人間は考える葦(あし)である」で知られるフランスの思想家パスカルに、「記憶は、理性のあらゆる作用にとって必要である」という一言がある。「分別をもってことを見極めるには、記憶が大切だぞ」と言い換えてみて、その記憶をくすぐられるのが東京都知事選である。

▼全国あげての直接投票で大統領を選ぶフランスのような仕組みの選挙は日本にはない。しかし、1000万有権者がたった一人の当選者を決める都知事選は、とらえようによってはこの国最大の選挙だ。だから名をなした人物が出馬して何の不思議もないのだが、「そういえば」と昔をいろいろ思い出してしまうのである。

▼小泉純一郎氏との元首相コンビで名乗りをあげた細川護熙氏は、そういえば不明朗な1億円の借金について責められ、就任9カ月で首相を辞めた。それでムニャムニャ、というのも猪瀬直樹前都知事と二重写しになる。自民党が応援する舛添要一氏は、そういえば一度は党を除名になった身である。こちらもムニャムニャ。

▼人気を誇った元首相と勝ち馬に乗りたい自民党という看板を背負って、2人が選挙戦の軸になりそうだ。でも、記憶から引っ張り出してきた2人の姿には、理性が納得しないしこりがある。パスカルは「理性は高圧的にわれわれに命令する。理性に服従しなければ、ばかである」と言う。やはり、ばかと言われたくはない。


27 12月

靖国参拝がもたらす無用なあつれき

靖国参拝がもたらす無用なあつれき
社説 2013/12/27付

安倍晋三首相が靖国神社に参拝した。
本人の強い意向によるものだろうが、内外にもたらすあつれきはあまりに大きく、国のためになるとはとても思えない。
「尊い命を犠牲にされた英霊に手を合わせてきた」。
首相は参拝後、こう強調した。赤紙で戦地に送られた多くの戦没者を悼むのは日本人として当然の感情だ。

問題は靖国がそれにふさわしい場所かどうかだ。

靖国には東京裁判でA級戦犯とされた戦争指導者14人がまつられている。
1978年になって当時の宮司の判断で「昭和殉難者」として合祀(ごうし)された。
日本政府はサンフランシスコ講和条約締結によって「東京裁判を受諾した」との立場だ。
戦犯を神格化する行為が好ましくないことはいうまでもない。

東京裁判の正統性を疑問視する向きがあるのは事実だ。
しかし戦犯問題を抜きにしても、日本を無謀な戦争に駆り立てた東条英機元首相ら政府や軍部の判断を是認することはできない。

いまの日本は経済再生が最重要課題だ。
あえて国論を二分するような政治的混乱を引き起こすことで何が得られるのだろうか。

外交でも失うものが多い。中国と韓国は猛反発した。両国とは首脳会談が途絶えて久しい。
「参拝してもこれ以上悪くなりようがない」「参拝を外交カードにすべきだ」という声も聞いた。
むしろ相手国への配慮に欠け、関係改善を遠のかせるだけだ。

21世紀はアジアの世紀といわれる。
アベノミクスでも掲げた「アジアの成長力を取り込む」という方針に自ら逆行するのか。経済界には首相への失望の声がある。

さらに心配なのは日米同盟への影響だ。
在京米大使館は「近隣諸国との緊張を悪化させる行動を取ったことに米政府は失望している」との異例の声明を出した。
オバマ政権は台頭する中国と対峙し、小競り合いにつながるような行為は回避したいのが本音だ。
10月に来日したケリー米国務長官らは身元不明の戦没者の遺骨を納めた千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れた。
その含意は分かっていたのではないか。

哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」を持ち出すまでもなく、政治とは幅広い人々の主張をとりまとめ、代弁する営みである。
首相の判断は状況や立場を踏まえたものでなくてはならない。

27 12月

「国の最高の立場にある人の言動と個人の信条とは、あくまで分けて考えなければならない」

春秋 2013/12/27付

首相の靖国神社参拝にからんで「国の最高の立場にある人の言動と個人の信条とは、あくまで分けて考えなければならない」と言ったのは後藤田正晴元官房長官(故人)である。首相の発言は日本という国の発言、示された意志は日本の意志とみなされるから、だろう。

▼安倍首相の突然の靖国参拝も日本の意志と受けとめられる。残念というしかない。かつて首相だったときに参拝できなかったことを「痛恨の極み」と言い続けてきて、自民党総裁になり首相になった、だから参拝した。そうした理屈は通るだろうか。「痛恨の極み」という首相と心の働きを共にする人が多数とは思えない。

▼A級戦犯がまつられている。中国や韓国が反発する。それでも首相は参拝するのか。意見はぶつかり、答えがみつからぬまま、受け継がれていくべき国の意志とは無縁の、首相個人の信条、あるいは心情に委ねられてしまう。後藤田さんには「政治というのは、美学ではない。徹頭徹尾、実学である」という言葉もあった。

▼戦争の犠牲者の冥福を祈るのは大切である。同じように、人々がいまを安心して生きることも大切である。首相の靖国参拝が、中国や韓国にいる日本人を不安に陥れないか、おそれる。日本との関係改善を真剣に求める中国人、韓国人のまっとうな声が大音響の反日ナショナリズムにかき消されてしまわないか、おそれる。


▽安倍首相「靖国参拝」と映画『永遠の0』
門田隆将 2013年12月26日 14:27
http://blogos.com/article/76707/

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26 12月

田中将大、ショッピングモール、クリスマス・イブ、女性初の棋士、

春秋 2013/12/22付

511勝という米大リーグ通算最多勝記録を持つ投手サイ・ヤングの箴言(しんげん)が残る。「詩人と同様、投手とはつくられるものではなく、生まれてくるものである」。大リーグのあるコーチは「12人の投手がいれば、12種類の言語をしゃべらねばならない」と言ったそうだ。

▼投手とは、とくに時代に一人二人という投手とは、かくも特異な男たちである。いまこの国でその代表は、楽天の田中将大投手をおいていない。日本シリーズで巨人にひとつ負けたが、今シーズンは24勝無敗。かつての野村克也監督がボソッとつぶやいた「マー君神の子不思議な子」という言葉が、予言のように耳に残る。

▼大リーグ挑戦は実現するのか。田中投手の来季が気になる。移籍の仕組みが変わり、ざっくりいえば、選手にとってはどの球団に行くか選べる幅が広がる一方で、日本の球団に入るお金は減ることになった。最高でも2千万ドル(約20億8千万円)は安すぎるという計算があるのだろう、楽天球団が移籍に消極的だとも聞く。

▼しかし、甚だ失礼な言い草ではあるけれど、いまの日本に田中投手の相手になる打者はほとんどいない。そこで白星を積む姿より、見たいのは、打たれるかもしれぬ相手に挑んで打たれてよし、抑えればなおよし、の姿である。ファンの身勝手とは重々承知だが、つくろうとしてつくれぬ投手だ。そんな舞台に立たせたい。


春秋 2013/12/23付

どこまで行っても、新しい店が現れる。流通業大手が先週末に開いたショッピングモールを歩いてみた感想だ。建物が広く店が多いだけではない。劇場あり公園あり、店に在庫のない商品を注文するネット端末あり。あらゆる消費をのみ込むブラックホールにも見える。

▼この施設は千葉市の東京湾岸に建ったものだが、実際はこうしたモールの多くは地方の郊外か田園地帯に多い。その存在が若い世代の地方志向に拍車をかけていると分析するのは若手社会学者の阿部真大さんだ。かつて若者の多くは東京にあこがれた。つまらない地元か、刺激的な大都市か、道は2つしかなかったからだ。

▼今は違う。車でしばらく走ればショッピングモールがある。ボウリング場やカラオケルームを集めた娯楽ビルも増えた。田舎でも大都市でもない「ほどほど楽しい地方」という生活圏ができたのだと、阿部さんは近著「地方にこもる若者たち」で指摘する。車さえあれば遠足に行くような楽しさを毎週末、味わえるわけだ。

▼この本は地方に暮らす若者たちの声も紹介している。モノも娯楽も手に入る。車で動けるから自然も身近だ。しかし将来に不安もある。その筆頭が子育てだという。商店街が消え、地域の人たちと接点を持ちにくくなったことも原因では、と阿部さん。楽しさ、便利さの次に街や企業が提供すべきものは何か、垣間見える。


春秋 2013/12/24付

きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス・イブ――などと歌詞をつづれば思わず歌いだしたくなる。山下達郎さんの「クリスマス・イブ」だ。発売されたのは1983年、ちょうど30年前である。いまもシーズンを迎えるとしばしば耳にするから古典の域だろう。

▼リリースしても、しばらくはあまり注目されなかったという。それが88年にJR東海のCMに使われたのをきっかけに大ヒットする。世はまさにバブル期で、これを聞くとあの当時のさんざめきを思い出す人も多いはずだ。夜の繁華街でタクシーを止めるのに一万円札をかざして争奪戦、といった話は現在も語り継がれる。

▼この曲に重なるように、バブル期のクリスマスは「恋人と過ごす大切な日」になった。それもお金を惜しんではならぬ、とあって高級レストランやシティーホテルに予約が殺到し、定番のプレゼント「ティファニーのオープンハート」が売れに売れた。昨今の地道な「婚活」とは違って、男も女もずいぶん高揚していたのだ。

▼さかのぼれば高度成長期にはバタークリームのケーキが家庭に登場し、鶏のもも焼は大ごちそうに見えた。それにだって幸福を感じたのだから社会はあっという間に変わったわけだ。そういう激動を経て失われた20年を過ぎ、さて時代はどこへ向かうのか。有為転変を思い、しみじみ「クリスマス・イブ」など聴くとする。


春秋 2013/12/25付

世の中には、なぜという理由がきちんと説明できない事実というものがある。たとえば「女性は男性より将棋が弱い」という事実。もちろん、ヘボ将棋を指す男など苦もなくやっつける女性はいくらもいるのだが、頂点を比べれば、男女の力の差は厳然として存在する。

▼いま女性で一番強いといわれる里見香奈さん(21)は一方で女流棋士として活躍し、一方では奨励会という名の棋士養成機関でプロの卵の少年にまじってしのぎを削っている。女性だけが少々甘い基準でなれる「女流棋士」は、男であれ女であれ奨励会を突破しなければなることができない「棋士」とは格がまったく違う。

▼その里見さんが奨励会で一番上の三段に昇段し、棋士までもう一歩に迫った。棋士はおろか奨励会三段になった女性すらこれまで一人もいなかったのだから、快挙である。つぎは三段の40人ほどが戦う半年ごとのリーグ戦が待っている。上位2人に入れば、「女流最強棋士兼棋士の卵」から晴れて「女性初の棋士」である。

▼とはいえ三段から棋士になれるのは半数以下という。「奨励会員なんてのは、虫ケラみたいなものなんだ」。奨励会の厳しさを描いた「将棋の子」(大崎善生著)にそんな一言がある。棋士を目指す貪欲な少年たちとどう戦うのか。里見さんのこれからは、大げさにいえば「将棋における男と女」の常識に一撃を加えうる。


春秋 2013/12/26付

米軍機に追いかけられた。太平洋戦争の時代に育った親に、そんな話を聞いたことがある。学校からの帰り道、一人で田んぼの中を歩いていると、遠くからブーンというプロペラ音が聞こえた。瞬く間にグラマン戦闘機が1機目の前に迫ってきた。機銃掃射が怖かった。

▼身を伏せ死を覚悟した瞬間、頭上すれすれを飛んで去っていった。そのとき操縦席にちらりと人の影が見えたという。子供だと分かり撃つのをやめたのか。面白半分で脅してみたのか。恐怖が通りすぎると、なぜかしみじみと涙があふれたそうだ。グラマンは恐ろしい機械だが、機上にたしかに生身の人間を感じたからだ。

▼無人機の実用化が進んでいる。農薬の散布やピザの宅配は便利そうだが、軍事用となれば話の次元が違う。米国は遠隔操作の爆撃機を対テロの実戦で使った。中国は尖閣諸島に偵察機を飛ばした。ロボット兵器の計画もあると聞く。警告や投降の無線交信も通じない。無言の機械を相手に感じるのは底知れぬ闇でしかない。

▼科学技術の歩みは、時に人の倫理の枠を超えてしまうことがある。原子力や生命工学、情報通信網は人間の想像力を追い越し、今は人間の側が必死に技術に追いつこうとしているようにみえる。便利さを喜ぶうちに、自分の命まで削ってはいないだろうか。せわしい時間から解き放たれる年末年始に、深呼吸して考えたい。


春秋 2013/12/27付

首相の靖国神社参拝にからんで「国の最高の立場にある人の言動と個人の信条とは、あくまで分けて考えなければならない」と言ったのは後藤田正晴元官房長官(故人)である。首相の発言は日本という国の発言、示された意志は日本の意志とみなされるから、だろう。

▼安倍首相の突然の靖国参拝も日本の意志と受けとめられる。残念というしかない。かつて首相だったときに参拝できなかったことを「痛恨の極み」と言い続けてきて、自民党総裁になり首相になった、だから参拝した。そうした理屈は通るだろうか。「痛恨の極み」という首相と心の働きを共にする人が多数とは思えない。

▼A級戦犯がまつられている。中国や韓国が反発する。それでも首相は参拝するのか。意見はぶつかり、答えがみつからぬまま、受け継がれていくべき国の意志とは無縁の、首相個人の信条、あるいは心情に委ねられてしまう。後藤田さんには「政治というのは、美学ではない。徹頭徹尾、実学である」という言葉もあった。

▼戦争の犠牲者の冥福を祈るのは大切である。同じように、人々がいまを安心して生きることも大切である。首相の靖国参拝が、中国や韓国にいる日本人を不安に陥れないか、おそれる。日本との関係改善を真剣に求める中国人、韓国人のまっとうな声が大音響の反日ナショナリズムにかき消されてしまわないか、おそれる。


19 12月

政治家・伊東正義、「田舎の中学校の校長先生のような顔」

春秋 2013/12/15付
この人のことを「田舎の中学校の校長先生のような顔」と書いたのは、先ごろ死去した辻井喬(堤清二)さんである。実直で清廉で頑固。生涯を通したその姿勢をうまいこと表した褒め言葉だと思う。この人、政治家・伊東正義が生まれて100年目がきょうにあたる。

▼地位を得、何事かを為(な)して名を残す人はいくらもあるが、地位を蹴り、為さざることをもって名を残すまれな人である。大物候補が軒並み金銭スキャンダルにまみれた1989年、金にきれいなこの人しかないと請われた首相就任を断った。「自民党という本の中身を変えず表紙だけ変えても意味がない」と語ったという。

▼大平正芳元首相との関係は盟友とも腹心ともいわれた。大平が選挙直前に急死した80年、官房長官だった伊東は首相臨時代理になったが、その36日間、官邸の首相執務室を決して使おうとせず、閣議では首相の椅子に座らなかった。政治資金集めのパーティーは開かない。勲章は断る。一事が万事、こうした調子で生きた。

▼話の数々はよく知られていても、日がたつにつれ、為したことばかりが幅を利かせて記録にも記憶にも蓄えられていく。さしでがましいとは思うが、水やりを怠って伊東の逸話を枯らせてしまうわけにはいかない。一生を振り返るとそんな気になるのである。そういえば、田舎の中学校の校長先生のような顔を最近見ない。


会津人 伊東正義
http://pub.ne.jp/yosh/?entry_id=2279133
伊東正義(1913-1994)は中央政界で活躍した数少ない会津人です。
福島県から総理大臣は出ていませんが、伊東正義は承諾をすれば総理になることができた只一人の福島県人です。

会津藩に伊東家は四家ありました。本家は代々、藩校日新館の教授を勤めた家柄で、正義の家はその分家です。
正義の父は長い間、会津中学(現会津高校)で教職にあり、名物教師として有名だったとのことです。
また山本八重から鉄砲を習い、戊辰戦争に出陣して討死した白虎隊士伊東悌次郎も伊東一門の一人でした。

正義は会津中学の時、会津の大先輩、山川健次郎(元東京帝国大学総長)と柴五郎陸軍大将の講演を聴きました。
そこで山川健次郎は「権勢富貴何するものぞ」と言い、柴大将は「会津の青年よ奮起せよ」と語ったのですが、
この頃から正義は「己の信ずる道を進む」という決意を固めたものと思われます。

後の人生において信念をもって主張し、行動したので「竹を割ったような人」とも評されました。
その後、中学を4年で終了し、浦和高等学校から東京帝国大学法学部に進み、卒業した後、農林省に入り官僚の道を歩みました。
彼が後々まで腰に手ぬぐいをぶら下げて執務したのは今でも語り草になっていますが、これは旧制高校時代のバンカラスタイルの名残です。

正義は農林次官を経験した後、1963年に衆議院議員に当選して政界に入りました。
党内では調整役として力を発揮し、外務大臣にもなりました。竹下総理の後、党の総裁になるように懇望されましたが、
「本の表紙だけを変えても中身が変わらなければだめだ」と言って、総理就任を固辞しました。

会津の居宅も東京の家も雨漏りがするような質素なもので、とても大臣経験者の邸宅とは思えないような有様でしたが、意に介することはありませんでした。

また伊東正義は業者から資金集めをしたり、利益を受けることは全くありませんでした。政治には金がかかるという問題を看過してはならないと言い、「青臭い子供のような議論だ」と批判されると、「政治家の中に私みたいなのがいてもいいではないか」と言って、名前通り正義に基づいて、清貧で清潔な生涯を送りました。

伊東正義の略歴/偉人伝/会津への夢街道
http://aizue.net/siryou/itoumasayosi.html


突然、伊東正義を思い出しました。
http://blog.livedoor.jp/sumiin/archives/2791672.html

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13 12月

上野東京ライン

春秋 2013/12/13付
どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ――。忘年会のカラオケで、今宵(こよい)も名曲「あゝ上野駅」を歌うおじさんがいるだろう。ならばと部下が選ぶのは「木綿のハンカチーフ」か。恋人よ僕は旅立つ 東へと向かう列車で――。めざすは東京駅である。

▼上野と東京。この2つのターミナルは昭和歌謡の時代が遠く過ぎてもそれぞれの雰囲気を損なわずにいる。東北新幹線などの始発駅は東京になって久しいが、上野にはなお「北」への玄関口の旅情が漂う。かたや日本の「西」との接点であり続けてきた東京駅はマンモス化が著しく、上京した者を華やかにつつみ込むのだ。

▼再来年の春、そういう両駅を結ぶ新線「上野東京ライン」が開通することになった。東京駅止まりの東海道線と、上野駅が終着の東北線や常磐線の列車が相互乗り入れするという。つまり北関東から神奈川、静岡方面まで1本でつながるわけだ。わずか3.8キロの新線だが「北」と「西」の歴史的な出合いにほかならない。

▼いずれも始発駅の地位を失い途中駅と化すけれど、気になるのは上野だ。新幹線ターミナルの座を奪われ、こんどは在来線始発駅としても影が薄くなる……。などと考えつつ年の瀬のこの駅を歩けば、中央改札に掲げられた猪熊弦一郎作の巨大壁画「自由」が世の有為転変を見下ろしている。変わりゆく駅と人を見ている。

20 8月

責任を果たすためには時として夜を徹するもよし

労働時間を短くする動きは少なくとも半世紀前からある。1959年ごろにキヤノンが「ゴー・ホーム・クイックリー」、つまりできるだけ早く仕事を終えて家に帰ろうという社内運動を始めた。ただ当時の社長で発案者だった御手洗毅氏は、世間の反応が不満だった。

▼マイホーム主義と混同されていたからだ。真意は、メリハリをつけよということ。「責任を果たすためには時として夜を徹するもよし」。そして懸命に努力する姿に「家族も尊敬と信頼をこめて帰宅を迎えることであろう」。そう官庁の広報誌に書いている。時間を自己管理できなければダメだと言いたかったに違いない。

▼家族との時間も仕事に集中する時間も自分で上手につくり出す。企業の競争が激しくなり仕事量が増えている今、時間の使い方を工夫することは昔以上に大事だ。働く時間を測らず、労働時間規制の対象外とする「ホワイトカラー・エグゼンプション」など、本人の裁量による働き方の議論も始まろうとしているのだから。

▼実業界に転じる前に医者だった御手洗氏は、社員の健康管理に気を配った。40歳以上は全員心臓と血管を検査し、結果が少しでも思わしくなければ治療や休養を命じた。社員の顔色もよく見て、体調は大丈夫かと声をかけたという。「夜を徹するもよし」との言葉には、そう言えるだけの配慮があったことも付け加えたい。

19 8月

身近な人が亡くなると、まわりの空気の色がひとり分だけ変わる。

身近な人が亡くなると、まわりの空気の色がひとり分だけ変わる。それまで控えめだった若者が急にたくましい顔つきになったり、権力者だった年長者が物静かになったり。別れの寂しさはやがて時が埋め、人の死を越えて残った者の関係が新しい均衡点に移っていく。

▼お盆に子や孫の元を訪れていた精霊たちは、天界に帰っていったことだろう。自分がいなくなった後の家族の面々と向き合い、一人ひとりの変化に気づいたに違いない。時は移ろい、人は成長する。週が明けて8月も終盤に入った。帰省先や休暇から都会に人々が戻って来る。今年の夏の終わりは、もうそこまで来ている。

▼一人の死で変わるのが、家族や仲間の内の空気だとすれば、大勢が一度に亡くなったとき変わるのは、社会の風景そのものである。戦争がそうだった。日本では広島と長崎で都市が丸ごと消えた。東京は焦土となった。個人の心の調整で何とか対応できるような出来事ではない。忘れられない、忘れてはならない夏である。

▼エジプトの騒乱で死者が増え続けている。画面に映るのは憎悪と悲嘆にゆがんだ顔ばかり。まるで戦争と変わりがない。たった一人の自然な死にも、残った者を成長させる貴い力があるのに、なぜ人間は愚かな殺し合いを繰り返すのか。この国に新たな均衡が見つかることを祈りつつ、わが先祖に、いま一度手を合わせる。

16 8月

内田百間の戦時日記「東京焼盡(しょうじん)」

---2013/08/14---
「本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ッタノハ昭和十九年十一月一日デアル」。内田百間の戦時日記「東京焼盡(しょうじん)」の序文に、こうある。その日、マリアナ基地から飛来したB29が東京に初めて侵入したのだ。やがて全国の都市を焼き尽くす本土空襲の、これが幕開けであった。

▼大戦の空襲というと、何年間も続いていたイメージがある。しかし敗戦前年の秋までは案外ノンビリ構えていたという。実際に焼夷弾(しょういだん)が雨あられと降りそそぎ始めたのは昭和20年の2月以降である。銃後の国民が逃げ惑い、命を落とし、日本中の都市が炎上していったのは、それからのわずか半年ほどの間の出来事なのだ。

▼「本モノ」の空襲の前に、なぜ戦争をやめられなかったか。歴史をたどれば誰もが思うに違いない。19年7月、サイパン陥落によって米軍が空爆拠点を確保したときに敗北は運命づけられたといわれる。しかし現実に目を向けず、なお1年余にわたって無謀な戦いを続け、かぎりない悲劇を重ねていった大日本帝国である。

▼いまでは太平洋戦争のこういう経緯さえ忘れられがちだ。惨禍を何倍にも大きくした本土空襲には、そして原爆投下には前史があったことをもっと知ってもいい。指導者はやめる勇気を持てず、なお泥沼にはまっていったことを、あらためて悔いてもいい。「熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず」。玉音放送を聞き、百間はこう記した。

---2013/08/15---
「熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず」。きのうの小欄で触れた昭和20年8月15日の内田百間の言葉は、当時の多くの日本人が玉音放送に接したときの偽りない姿だったろう。「どう云う涙かと云う事を自分で考えることが出来ない」と百間はしたためている。人々はただ、泣いた。

▼それは無念の涙だった。悔恨の、憤怒の涙だった。幻滅の、虚脱の涙だった。たとえば「昭和萬葉集」の第7巻は終戦を詠んだ歌を集めているが、そこにも涙があふれている。「父母(ちちはは)の泣けば幼き子等までがラヂオの前に声あげて泣く」高見楢吉。この巻の題は「山河慟哭(どうこく)」という。8.15体験は、かくも激しかったのだ。

▼慟哭は、戦争で死んだたくさんの人々の痛苦と響き合っていたに違いない。死者およそ310万人。当時の人口でみると、じつに25人に1人が戦場で、あるいは戦禍にたおれて亡くなった。国民のこれだけの命を奪い去り、死を日常の風景とまでした昭和の戦争の過ちは、やはりどれほど省みても過ぎるということはない。

▼68年たった。8.15のたくさんの涙を超え、日本人が大切に重ねてきた歳月である。戦後という時代を思うとき、その出発点の涙を忘れてはなるまい。さまざまな矛盾をかかえつつ「戦後」はずしりと重いのだ。「昭和萬葉集」からもう1首引く。「新しき世をし創らむと若きらがひたぶるなりしその貌(かお)を見よ」羽場喜弥。

---2013/08/16---
シェークスピアの原典とはわずかに違うのだが、戯曲「トロイラスとクレシダ」の一節を白鳥敏夫元駐伊大使は英文のまま墨書した。「世界中の人間はみんな同じ性質で結ばれているんですな」(三神勲訳)といった意味である。ほかにも20人以上の名前が並んでいる。

▼東京裁判の最中、1946年秋にA級戦犯が墨でしたためた寄せ書きがアメリカでみつかった。日系の米兵看守に贈られたものだという。写真に見えるかぎり、署名の前に中国の古典や仏教典から引いた一言を書き添えた例が多い。「ひがし西大平洋につながれてくさびとならむ人ぞ尊き」は重光葵(まもる)元外相の自作だろうか。

▼座右の銘か、書き慣れたお得意か。あるいは日本語がわかったという米兵へのサービスだったのか。万邦協和、諸悪莫作(しょあくまくさ)、鳶飛魚躍(えんびぎょやく)……。寄せ書きにはもうほとんど目にしない熟語がある。そこにこもる心情をいま推し量るのは難しい。他方、一言を添えず名だけ記した何人かがいる。胸には異なる心情が宿ったのだろう。

▼ただはっきりしているのは、名を連ねた人たちが戦時の日本を指導する立場にいたことである。寄せ書きの写真を眺め、のこった教訓めいた言葉を時に辞書で調べながら、思い出した川柳がある。「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」(井上信子)。70歳を過ぎた一女性が40年に発表した句の方がどれだけのびやかなことか。


22 7月

「誠実にして叡知(えいち)ある、愛国の政治家出でよ」

「誠実にして叡知(えいち)ある、愛国の政治家出でよ」。これが願いである――公開中の映画「風立ちぬ」の主人公堀越二郎は昭和20年8月15日、「終戦日誌」と題したリポート用紙1枚とちょっとの文章を書いた。その末尾を、新しい時代に向けた政治家への期待で結んでいる。

▼零戦の設計主任だった技術者がのこした一文はいま、埼玉県所沢市の所沢航空発祥記念館に展示されている。読んで気づくことがあった。敗戦は未曽有の出来事であったが、結局、いつの時代もわれわれが政治家に求めるのは誠実、叡知、愛国なのではないか。愛国には「まっとうな」の形容が欠かせぬにしても、である。

▼参院選で自民党が圧勝した。衆院と参院のねじれが消え、国を統べる形が決まった。この選挙では参院議員121人だけでなく、当面の政治の形を選んだことになる。当面、とは長ければ次の参院選までの3年間である。半年あまりでかくも没落した民主党の体たらくをみれば、3年とは決して短い期間ではないとわかる。※2012/12衆院選(230→57)⇒2013/07参院選(86→59)

▼42歳の堀越にとっての敗戦は、何より「飛行機を造ることが終った」ことだった。それ以外は「何も分らない。分らないが考えなければならぬ」と記している。今の世にも考えなければならぬことはたくさんある。まずは投票しなかった人々のことである。誠実、叡知、愛国の政治家が競い合ったのだとすれば、多すぎる。


24 5月

ひろ休み、ひと休み

室町時代の禅僧、一休宗純は世界的な有名人だ。原動力となったのは、1970年代から80年代にかけて制作されたテレビアニメ「一休さん」。アジアを中心に海外でも放映され、子どもたちの心をがっちりつかんだ。その一休さんの口癖の一つが「一休み一休み」だ。

▼勉強やらスポーツやら、親や先生からプレッシャーを受けている子どもたちにとって、この言葉は心を軽くしてくれる効果を持っていた。毎回一休さんが披露する頓知と機転に加えて、肩の力を上手に抜いた一休さんの生き方が魅力だった。大人になってからも、行き詰まった時つい口にするという方がいるのではないか。

▼「一本調子で株価が上がっているのは、何か危なっかしいですよね」「このあたりで一休みしたほうがいいんだろうけどなあ」。こんな会話を小耳にはさんだのは、きのうの午前のことだ。数時間後には、日経平均は前の日の終値より1000円超も安くなっていた。アベノミクスに最初の試練――。そんな声も上がった。

▼確かに1000円を超える株安は衝撃的だ。中国の景気動向への懸念やら、長期金利の上昇やら、円安一服やら、心配はいくつもある。ただ、相場に上げ下げはつきもの。安倍晋三首相が就任してからの株高の勢いがずっと続くとは誰も思っていなかったろう。一休さんなら「一休み一休み」というところ、かもしれない。


23 5月

そんなマイペースの国が「世界」を意識するようになったのはさらにその14年後

江戸の庶民は時計など持っていなかったが、市中では時の鐘が鳴るから困らなかったらしい。岡本綺堂の「半七捕物帳」には「吟味をうける者は六ツ時頃までに」「湯屋へ急いで行ったのは朝の四ツ半頃」などと時刻がよく出てくる。六ツは午前6時、四ツ半は11時だ。

▼とはいえ、当時は日の出から日没までを6等分する不定時法を採っていた。一時(いっとき)の長さが昼と夜で、夏と冬で異なるわけだ。定時法への変更は明治5年である。そんなマイペースの国が「世界」を意識するようになったのはさらにその14年後。グリニッジ標準時より9時間進んだ東経135度の時刻を日本標準時と定めた。

▼それを2時間早めようというアイデアを、東京都の猪瀬直樹知事が政府の産業競争力会議で披露した。国土の真ん中に標準時を求めなくてもいいではないか。戦略的に2時間進めれば東京市場は世界でいちばん早く開きニッポンの存在感が高まる。省エネにもつながる。明るい時間に仕事が終わり余暇だって増えるという。

▼たしかに地域の標準時の設定は意外に便宜的なものだ。ロシアのウラジオストクは東京より西にあるのに2時間進んでいる。猪瀬案もあながち荒唐無稽ではないのだが、やはりマイナス効果も多々あろう。冬など会社に着いてもまだ夜が明けぬ。猪瀬さんがせっかちに時の鐘を鳴り響かせても体がついていかない気がする。


22 5月

20個頼まれた饅頭を18だけ買う「下町の感じ」

お客が来るからと、饅頭(まんじゅう)を20個買ってくるよう少年が母親から頼まれる。近所の菓子屋には饅頭がちょうど20残っている。しかし、店主に「よかったな。きょうはもうこれきり作らない」と聞かされた少年は、「間違えた。やっぱり18個だった」と言って18だけ買った。

▼帰ってきた少年を母親は「いいことしたね」と褒めた、という話を聞いたのは立川志の輔さんの高座だった。下町生まれの友達の体験談なのだそうだ。そう、下町は大人にも子どもにもそんな感じあったな、と心に残った。自分さえよければ、でなく、周りへの目配りが無理なく利いていた、と字にすれば少しやぼったい。

▼東京スカイツリーができて都心の景色が変わった。路地の向こう、家並みの切れ目、ビルの間。思わぬ場所でその姿を見つけたことが幾度となくあった。鬱陶しさなきにしもあらず、は120年前にエッフェル塔を仰いだ往時のパリ市民と同じ感覚だろうが、そういえば下町のど真ん中にあったのだと思い出したりもする。

▼開業からきょうで1年、目算をはるかに超える人を集めてスカイツリーは立派な名所になった。もちろん人気は天空からの眺めだろう。でも、ときに界隈(かいわい)を歩いてみてもいい。どこかで20個頼まれた饅頭を18だけ買う「下町の感じ」に出合えればめっけものだ。これ、展望台からは見えないし、もうほとんどないのだから。

21 5月

滋養豊富、風味絶佳―と毛筆調で書いた菓子といえば? 

滋養豊富、風味絶佳――と毛筆調で書いた菓子といえば? わかる人は多いだろう。「森永ミルクキャラメル」が発売されてから来月10日で100年になる。最初は缶入りやバラ売りで、翌年に現在のようなポケットサイズの紙の箱入りが登場した。大正初めのことだ。

▼改めてこの菓子を手に取ると、滋養の文字から思い浮かぶことがある。製造元の森永製菓は関東大震災のとき、被災者の栄養補給にと、ビスケットなどの菓子を6万袋、練乳を1万5千缶、手分けして配った。「女工哀史」が描いた過酷な長時間労働の時代に社員の健康を考え、一日8時間労働を先駆けて取り入れもした。

▼企業が大事にしていることや理念が、キャラメルの宣伝文句にも表れているように思える。創業者の森永太一郎は渡米して菓子職人を志すが、日本人は差別され、なかなかかなわなかった。そんなとき親切な老夫婦と出会って熱心なキリスト教信者になり、晩年は伝道に励む。慈愛の心は創業の精神といえるかもしれない。

▼売れる商品が出てこないと悩む企業は多い。消費者ニーズの分析が足りない、世の中の変化に対応できていないと反省する企業がたくさんある。もちろんそうした改善は欠かせないが、うちはどんな会社かというメッセージをもっと発信する手もあるだろう。ファンづくりの道の一つが長寿キャラメルからみえる気がする。


20 5月

人間の最大の仕事は、悲しい運命に瞬間でも抵抗できるようないい笑いをみんなで作りあうことだ

苦しみや悲しみは人間が生まれ持っている。でも、笑いは人の内側にないものなので、人が外と関わって作らないと生まれない。井上ひさしはそう言った。だから、人間の最大の仕事は、悲しい運命に瞬間でも抵抗できるようないい笑いをみんなで作りあうことだと。

▼希代の戯作者の足跡をたどった「井上ひさし展」が県立神奈川近代文学館で開かれている。見てまわると、笑いがいかに重大な関心事だったか、いかに笑いに心血を注いでいたかにあらためて圧倒される。その熱にあたって手紙一通を思い出した。笑いに対する感覚をつづった80歳の男性読者のカナダでの体験談である。

▼空港のチェックインで、日本人がスーツケースを預けたら女性の係員が重さのあまり手を滑らせた。それを見て日本人がクスリ笑うと係員にものすごい形相でにらまれた。そのくせ彼女は、別のカナダ人とすぐにこやかに話し始めている。人種差別かと思い、気になってカナダ人に聞いてまわった、といった内容だった。

▼分かったのは、自分に関係ない第三者を笑ってはいけないというルールだったという。道ですってんころりんした人を誰も笑わない。笑う方が自然でも、人は自然のままではいけないと幼いころから教えられている……。なるほど、笑いを作ることの難しさがよく分かる。「人間の最大の仕事」の言、誇張に聞こえない。


19 5月

同潤会アパートに空室はないだろうか

同潤会アパートに空室はないだろうか。そこにもう一つの、架空の生活を持ちたいのだ――。演出家の久世光彦さんが、滅びゆくものへの偏愛をつづった「昭和幻燈館」にこう書き残している。四半世紀前の随筆だから、まだ同潤会アパートの多くが命脈を保っていた。

▼その建築の、昭和モダンの濃密な空気に引かれたのは久世さんだけでなかっただろう。関東大震災の復興事業として、内務省は同潤会なる組織を設けて鉄筋コンクリートの集合住宅を建てた。東京と横浜に計16カ所。しかし近年は老朽化が進み、最後まで残っていた台東区の上野下アパートがついに来月から取り壊される。

▼同潤会はさまざまな、野心的な試みを展開した。たとえば昭和5年にできた大塚女子アパートは働く女性のための住まいだった。中庭を囲む150の居室のほかに食堂やシャワー室があり、洗濯室、音楽室やサンルームまで備えていたという。震災後の新しい時代にふさわしい住空間を企画した人たちの苦心の結晶である。

▼やがて戦争が始まりそれどころではなくなるのだが、同潤会が掲げた集合住宅の理念は戦後の団地やニュータウンに引き継がれていく。さていま、東日本大震災の被災地に世紀を超えて価値を保ちつづける何かが生まれつつあるかどうか。解体を控えなお存在感を放つ上野下アパートを見上げれば、そんな思いが胸にわく。


18 5月

いま、モノの価値とは何か。並ぶ商品が無言で語りかける。

今週半ば、東京都内でちょっと変わった視点で選んだ「優秀商品」の表彰式があった。天然酵母を使い洗浄力を高めた自然派の洗剤。竹を使った自転車の車体やノート帳。廃タイヤを用いた靴。東北の被災地で女性たちが作った高級牛革かばん。そうしたモノたちだ。

▼賞の名をソーシャルプロダクツ・アワードという。買ったり使ったりが目先の満足だけでなく、社会を良くすることにもつながる。そんな商品を学者やデザイナーが選ぶ手づくりの試みで、今年が1回目だそうだ。モノに限らず、障害者の就労と地元食材の利用を兼ねた移動式カフェ、といった活動も賞をもらっている。

▼戦後、私たちのモノ選びのものさしはめまぐるしく変わってきた。お隣さんがテレビを買えば、同じテレビを買う。そんな時代に始まり、バブルのころは他人よりもワンランク上の生活を求め、不況になれば安さを追いかけた。アップダウンの末に、近年関心を集めるのが環境保護や寄付などをうたうモノやサービスだ。

▼受賞した中に大手スーパーのチョコレートがある。カカオ農家が十分潤うよう調達や生産を工夫したという。「こうしたモノにもっと力を入れよ、と株主総会で言われた」。担当者がうれしそうに語る。これらの商品はあすまで東京・南青山のカフェで展示中。いま、モノの価値とは何か。並ぶ商品が無言で語りかける。


17 5月

北極評議会

ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸の南端を回ってインド洋入りした。マゼランは南米大陸と南極大陸の間を通って太平洋に出た。欧州からアジアへ向かうのに、とんでもなく遠回りしたわけだ。19世紀にスエズ運河、20世紀にパナマ運河ができて随分と便利になった。

▼グローバル化の始まりともいえる大航海時代を切り開いた欧州の人たちは、実はもっと便利なルートの可能性に気がついていた。北極海を突っ切る北極航路だ。ただ、実現には巨大な障害があった。氷だ。冬場には全域が凍り付き、夏場でも海氷が漂う北極海は、新しいルートの開拓を目指す船乗りたちの命を奪ってきた。

▼北極航路が現実味を帯びてきて再び熱い視線を集めるようになったのは、20世紀の終わりごろだ。氷をものともしない画期的な船ができたからではない。地球温暖化のために夏場には氷がかなり姿を消すようになったからだ。海底には膨大な量の原油や天然ガスが眠っているとみられ、その開発も注目されるようになった。

▼そして17年前、米国やロシアなど北極圏の8カ国が話し合いの場として設けたのが、北極評議会だ。やみくもな開発を進めれば地球環境をさらにそこない、資源争いは国と国の間にあつれきをもたらしかねない。評議会が果たすべき役割は大きい。中国や韓国などとともにオブザーバーとなった日本の責任も、軽くはない。


16 5月

最初のJリーグの試合があってから、きのう5月15日がちょうど20周年だった。

ことし生誕100年を迎えるフランスの作家カミュといえば、「不条理」という言葉がまず思い浮かぶが、少年時代からのサッカー好きでもあった。彼が言っている。「人間の道徳心や義務について知っている一番確かなことのすべて、それを私はサッカーに教わった」

▼「なるほど」と感じる人は日本でも格段に増えただろう。最初のJリーグの試合があってから、きのう5月15日がちょうど20周年だった。この国の「20年」には「失われた」と枕詞(まくらことば)がつくのが通り相場になっている。人気、実力。時間の積み重ねに見合う収穫があった数少ない例外に、サッカーは挙げられるかもしれない。

▼その20年を記念する先日の試合で誤審があったと、日本サッカー協会の審判委員会が認めたそうだ。審判が正しい判定をすれば決勝ゴールはなかったことになり、戦いの行方も分からない……。考えだすととめどがない。ここは、世の不条理に耐えるのも人の道徳心であり義務である、とカミュを引きあいに出すしかない。

▼ただし、世界では誤審よりもっと厄介なことがサッカーに起きている。それは八百長であり、白人選手や観客が黒人選手を揶揄(やゆ)する人種差別の言動である。パリからは、地元チームの優勝を祝う群衆が暴れ、車や商店をたたき壊す無法が伝わった。不条理と戦うのもまた、道徳心、義務である。サッカーはそうも教えている。


15 5月

それを言っちゃあ、おしまいよ。

それを言っちゃあ、おしまいよ。映画「男はつらいよ」シリーズでフーテンの寅さんが、おいちゃんやタコ社長に意見されて吐くご存じの捨てゼリフだ。けだし名言である。世の中にはいろいろと理屈をまぶしてみたって、口に出したら収拾のつかなくなる言説がある。

▼日本維新の会の橋下徹共同代表の、従軍慰安婦問題をめぐる発言もそうだろう。「歴史を調べると慰安婦制度がいろんな軍で活用されていた」「銃弾が飛び交うなか、猛者集団を休息させようとしたら必要なのは誰でも分かる」。なるほど前段のような事実があったにせよ、だから「必要だった」とは政治家の言ではない。

▼ご本人はタブーを打ち破ったつもりかもしれない。しょせん野党党首でもある。しかし旧日本軍の従軍慰安婦をここまで容認する発言を黙過するほど世界は甘くなかろう。米国などの視線も厳しいこの問題はとにかく慎重に扱うにかぎるのだ。だいたい、こんなことを言ってのける神経には女性への意識が抜け落ちている。

▼橋下さんは沖縄の米軍基地を視察した際、司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と持ちかけたそうだ。「司令官は凍りついたように苦笑していた」というが、その場面を想像するだけでこちらが恥ずかしくなる。この人のほとばしる言葉はときに的を射ている。けれどこんな具合では橋下さん、ブームもおしまいよ。


14 5月

「駄目な会社」の見分け方

初対面の仕事の相手を訪ねるとき、約束に何分まで遅れても許されるだろうか。5分なら、まあ許容範囲かもしれない。10分だと印象はかなり悪くなる。15分も待たせると、レッドカードだろう。日本の社会は遅刻に厳しい。では、約束より早く着く場合はどうだろう。

▼ある大物の経営者が「駄目な会社」の見分け方を教えてくれた。「大変に申し訳ないのですが、予定より早く着きそうなもので、いまからお邪魔してもよろしいでしょうか」。面会相手の社長が、車でこちらのオフィスに向かっている。その秘書から、こんな電話がかかってくる会社は、組織の衰退が始まっているという。

▼約束に遅れても、早すぎても、待つ側には迷惑がかかる。来客が到着してしまったら、放っておくわけにもいくまい。前の予定を切り上げて応対しなくてはならない。時間の管理を任せられた秘書が、自分の社長のご機嫌をうかがうばかりで、訪問先の都合まで考えられない。社員の目線が内向きの「駄目な会社」である。

▼エレベーターの乗り降りなどで、秘書が社長の前でこれみよがしに、すばしこく動いてみせる会社も要注意だそうだ。ボスが喜ぶと思ってそうするのだろう。だが、側近の姿を見て他の社員はまねをする。そして組織全体にごますり体質が広がっていく。全国の社長のみなさん、御社には気が利きすぎる秘書はいませんか。


13 5月

戦前も戦後も、高度成長期もバブル期も揺るがなかった暮らしのしぶとさ

旅の神髄はスーパーにあり。などと言えば怪訝(けげん)な顔をされそうだが、出張でも観光でも、どこかに出かけたときは地場のスーパーをのぞいてみると面白い。土産物店には置いてない、普段づかいの食品がそこここに控えているはずだ。ローカルフードの総まくりである。

▼同好の士は少なくないとみえ、昨今はそうして買い込んできたらしい醤油(しょうゆ)、袋菓子、乾麺などを土産にもらうことがある。スーパーめぐりがちょいとブームでもあるのだろう。「日本全国ご当地スーパー掘り出しの逸品」とか「おいしいご当地スーパーマーケット」といったマニアックなカタログ本まで書店に並んでいる。

▼民俗学者の宮本常一は、生涯をかけたフィールドワークで膨大な記録写真を残した。その大半はよろず屋の店先や日用品の看板や行商の様子や、つまり「日常」である。姿勢を低くして細部を凝視すれば日本の素顔が浮かび上がってくる、という思いがあったのだろう。現代の地場スーパーの棚にだって、その気配は漂う。

▼たとえばあちこちでよく出くわすのは、土地ごとの麩(ふ)のかずかずである。このひどく地味な食品をあまたのメーカーがつくり、さまざまに調理して食べ続ける日本人がいる。戦前も戦後も、高度成長期もバブル期も揺るがなかった暮らしのしぶとさを知るわけだ。世の有為転変に踊らないものが、たしかにそこにあるのだ。

12 5月

3次元プリンター

何かが手軽にできるようになることは、往々にして危険や落とし穴と表裏一体である。この法則を改めて思い出させてくれる話が米国から伝わってきた。家庭でもプラスチックで拳銃が作れてしまう設計図を大学生がネット上に公開し、議論を巻き起こしたニュースだ。

▼用いるのは「3次元プリンター」と呼ばれる機械だ。ふつうプリンターといえば、インク箱が左右に往復しながら紙に字や絵を再現する。「3次元」版は図面をもとに、インクではなく樹脂などを少しずつ溶かして台座に塗り重ね、モノを半ば自動で作ってくれる。近年価格が下がり企業や家庭、学校で利用が進んでいる。

▼テレビや冷蔵庫のように一家に一台近くまで普及すれば、アクセサリーのデザイナーがネットを通じ設計図だけを販売する、といった新しいビジネスも成り立つ。生活雑貨なら起業の機会が増えるという明るい話で済むが、拳銃のような危険なものも、こうした形で国境を越えて広め、売ることができるようになるわけだ。

▼ネットが書く人と読む人の間の壁を崩したように、3次元プリンターは作る人と使う人の垣根を消す。設計図を公開した若者へのインタビュー記事によれば、ネット経由で配布された図面は世界100カ国で80万。日本にも6万件の図面が渡ったそうだ。すべて実際に銃を作ろうという人ではあるまいが、気になる数字だ。


11 5月

心が肥えるもう一皿、大歓迎

文楽をきつねうどんにたとえてなるほどと思わせたのは、竹本住大夫さんだ。人形がお揚げさんで、それを生かす土台が、うどんの大夫とおつゆの三味線。土台のおいしさあっての文楽なのだから、昔は見にいくのではなく聴きにいくといった。著書にそう書いている。

▼舞台を食べものになぞらえる。その伝でいくなら、先日は思わぬデザートを楽しんだ。300人が入る東京・白寿ホールであったバロック音楽のコンサートで、アンコールも終わって帰りじたくのお客さんが、突然ステージに招きあげられたのである。日ごろなじみのない古楽器を間近に見てもらおうという計らいだった。

▼この日のプログラムは「関ケ原の合戦」の時代のイタリア音楽で、使ったチェンバロやオルガン、リコーダーなどは古いものの忠実な複製だという。舞台を埋めた人が工芸品のような楽器を囲み、写真に撮り、演奏者に声をかける。教会などの小さな演奏会ならともかく、ちゃんとしたホールでこうした光景はまず見ない。

▼リコーダー奏者の水内謙一さん(37)が間際になって思いつき、楽器のレンタル会社とホールのOKをとったのだそうだ。もちろん土台のメーン料理あっての音楽会ではあるが、少しのアイデアで、聴く楽しみに見たり話したりの楽しみが加わる。得したといえばなにやらさもしいが、心が肥えるもう一皿、大歓迎である。

10 5月

「どないかします」

東大阪市は6千の町工場がひしめくものづくりの街である。機械の音が通奏低音のように街全体を包み、狭い路地に金属と油の匂いが漂う。ほとんどが、10人以下の零細企業だそうだ。その看板を眺めながら歩くと、おかしなことに気づく。この街は看板に偽りが多い。

▼会社の名前に「○○ミシン工業」「××バネ製作所」などと記しているのに、実際は全く違うものをつくっている。フセラシ社はその典型だろう。「螺子(ラシ)」とはネジのこと。小さなネジ工場から出発し、今では世界に7つも大工場がある。この会社の精巧な金属部品がなければ、ハイブリッド車もスマホも商品にならない。

▼トヨタ自動車の利益が1兆円を超えた。記者会見で「スタートラインに立っただけ」と語る豊田章男社長の目の光が強かった。やはり製造業が元気になると、明るい気分になってくる。その大企業の陰には、無数の縁の下の力持ちがいる。つきつめて考えると、日本の競争力の源泉は、無名の中小企業の群れかもしれない。

▼なぜ社名と仕事が異なるのか。東大阪の職人がよく口にする言葉は「どないかします」である。こんな部品をつくれるかと聞かれれば、決して無理だとは言わない。次々と大企業の要望に応えるうち、いつのまにか「本業」からずれていった。偽りの看板は進化の証しでもある。さて、大企業の方は進化しているだろうか。

9 5月

やはりこういうものはアブない、いやはっきり、危ないと言っておこう

なんだか危ない人だね……などと若い人たちは「危ない」を軽いニュアンスで使う。ちょっとヘン、うさんくさい、怪しいといった意味だ。アブないと書けばその雰囲気がよく表れよう。政府が打ち出すあまたの政策のなかにも、なんだかアブないものが混じっている。

▼少子化対策を考える内閣府のチームが、国で「女性手帳」なるものをつくって配布する方針を決めたそうだ。手帳には妊娠適齢期や出産に関する知識、行政の支援策を記し、自らの健康データを書き込む欄も設ける。これを子宮頸(けい)がんワクチン接種時、進学時や就職時など節目ごとに何回も配る。およそ、こんな案らしい。

▼人口減の克服にはさまざまな啓発が必要だとしても、この作戦はどうだろう。少子化は社会の仕組みや政治の怠慢に根ざすところが大きいのに、晩婚や高齢出産を上から目線で戒めるとすればかなりピント外れだ。そもそも妊娠や出産は一人ひとりの価値観や生き方にかかわる問題だから、お上は出しゃばらぬほうがいい。

▼手帳を大量につくり続ける費用もばかになるまい。そのお金で、もっと実のある政策をひねり出せないものか。そういえば戦争中の「産めよ増やせよ」の時代には「体力手帳」とか「保健教本」とか、国家が国民を諭す印刷物がばらまかれたという。やはりこういうものはアブない、いやはっきり、危ないと言っておこう。